身が聞いていた
読書ばなれというか、昔の人に比べて本を読まなくなったと言われて久しいのですが、相変わらず毎年毎年多くの本が出版されます。そういう私も年に二、三冊のペースで出版させていただいています。
昨年から今年にかけて、日本で一番沢山売れた本は、養老猛氏の『バカの壁』だと思います。昨年末で二百万部出たと聞きましたから、現在では三百万部以上出ているのではないでしょうか。ベストセラーを追い求める方ではありませんが、私もついその勢いに負けて『バカの壁』を読みました。そして大切なことを教えられました。
「現代人は脳だけでものごとをわかったことにして、身が置いてけぼりになっている」という意味のことが書いてありました。
私はそれを読んで、私たちの聴聞もそうなっているのではないかと思いました。ややもすると私たちの聴聞も、「あの話は知っている」「あの話も以前聞いた」というようなことになっているのではないでしょうか、み教えを脳で理解して、それでよしとしているから、み教えが本当に生活の中に生きてこないのではないでしょうか。み教えが身にとどいて、はじめて私たちの生きる力になるのです。蓮如上人が、聴聞において、一番よくない姿勢は、「珍しい話を聞きたい」という思いが先にたつことであるとご注意くださっています。「珍しい話を聞きたい」というのは私たちの脳の要請です。脳は一度聞いたことを正確ではありませんが、なんとなく覚えていて、同じ話を二度、三度聞くことを嫌います。しかし、珍しい話は、その時は、私たちの知識欲や好奇心を満足させてくれますが、月日がたてば、何か珍しい話を聞きたいなという記憶は残りますが、身には何一つ残ることはありません。
それで蓮如上人は、「ひとつことを初ごとと聞くことが、聴聞の上では大切なことだ」とご指導くださったのです。身の勉強は、ひとつことの繰り返しにおいてしか実現しません。
同じことを日毎反復することによって、はじめて身につくのです。
その身についいたものが、私たちの生きる力となるのです。聴聞も一つことを繰り返し繰り返しお聞かせにあずかることによって、如来さまのお心が身にとどくのです。
如来さまの「どのようなことがあっても、あなたを捨てることがない」という真実が、わが身にとどいたというのが、領解です。脳で受け止めたのは、理解であって領解ではありませんし、本当にわかったということではないのです。
如来の大きなお心がわが身に受け取れた領解を、浄土真宗では信心というのです。信心は、あくまで身の問題であり、心の問題ではないのです。それで親鸞聖人は、「愚身が信心」といって、愚かな身にとどいた如来のまことを信心とよろこばれたのです。
蓮如上人は「わが身の一心」といって、わが身にとどいた如来の真実を一心とよろこばれたのです。
今、こんなことを話しています私も、若い時には珍しい話し方が好きで、同じ話を聞くと、またかとうんざりした思いで聞いていたものです。それが年齢を重ね、六十過ぎになって気づかせていただいたのは、若い頃聞いた珍しい話は、何一つ残っていないのです。
あの先生は時々変わったお話をされた記憶はありますが、話そのものは思い出そうとしても何一つ思い出せません。若い時に、またかとうんざり聞いた言葉だけが、今も鮮明にわが身によみがえってきます。その言葉がよみがえってくるたびに、その言葉でこの身にとどけられている如来のあたたかい心が、冷えた身をあたためてくださいます。また、そのお言葉を繰り返し話してくださった先生のやさしいお顔を昨日のことのように目の前にうかんできます。」
同じ言葉を繰り返し繰り返し聞かせてくださったのは、大学院の時にご指導いただいた大江淳誠和上です。どの授業であっても、必ず一度は出てくるお言葉がありました。それは「泥河の水も、清水の水も、大河の水も、海に入れば一味となる」というお言葉です。お正信偈の「如衆水海一味」のお心を、そのように話してくださったのです。生意気ざかりの私たちは、先生の口から、この言葉が出ると、またかと下を向いて冷笑していました。
それなのに四十数年たって、肉声で先生の声がよみがえってくるのは、この大江先生の越前なまりのあたたかいお言葉だけです。
脳では冷笑し拒否していたお言葉を身はしっかりと聞いていてくれたのです。人間の一生いろいろなことがあります。しかし、この世のあり方がどうであろうと、如来さまは必ず、すべてのいのちが味になれる世界を用意して待ってくださるのです。大江先生の言葉がよみがえるたびに、ほのぼのとしたよろこびにこの身はつつまれるのです。