降誕会

平成24年5月19日

 わたしなりに考えてみると、思いはかることのできない阿弥陀仏の本願は、渡ことのできない迷いの海を渡してくださる
大きな船であり、何ものにもさまたげられないその光明は、煩悩の闇を破ってくださる智慧の輝きである。
 ここに、浄土の教えを解き明かす機縁が熟し、提婆達多が阿闍世をそそのかして頻婆婆羅王を害させたのである。そして、
浄土往生の行を修める正機が明らかになり、釈尊が韋提希をお導きになって阿弥陀仏の浄土を願わせたのである。これは、
菩薩がたが仮のすがたをとって、苦しみ悩むすべての人々を救おうとされたのであり、また如来が慈悲の心から、五逆の罪
を犯すものや仏の教えを謗るものや一闡提のものを救おうとお思いになったのである。
 よって、あらゆる功徳をそなえた名号は、悪を転じて徳に変える正しい智慧のはたらきであり、得がたい金剛の信心は、
疑いを除いてさとりを得させてくださるまことの道であると知ることができる。
 このようなわけで、浄土の教えは凡人にも修めやすいまことの教えなのであり、愚かなものにも往きやすい近道なのであ
る。釈尊が説かれたすべての教えの中で、この浄土の教えに及ぶものはない。
 煩悩に汚れた世界を捨てて清らかなさとりの世界を願いながら、行い迷い信に惑い、心が暗く知るところが少なく、罪が
重くさわりが多いものは、とりわけ釈尊のお勤めを仰ぎ、必ずこのもっとすぐれたまことの道に帰して、ひとえにこの行
につかえ、ただこの信を尊ぶがよい。
ああ、この大いなる本願は、いくたび生を重ねてもあえるものではなく、まことの信心はどれだけ時を経ても得ることは
できない。思いがけすこの真実の行と真実の信を得ながら、遠く過去から因縁をよろこべ。もしまた、このたび疑いの網
におおわれたなら、もとのように果てしなく長い間迷い続けなければならないであろう。如来の本願の何とまことであるこ
とか、摂め取ってお捨てにならないという真実の仰せである。世に超えてたぐいまれな正しい法である。この本願のいわれ
を聞いて、疑いをためらってはならない。
 ここに愚禿釈の親鸞は、よろこばしいことにインド・西城の聖典、中国・日本の祖師方の解釈に、遇いがたいのに今遇
う事ができ、聞きがたいのにすでに聞くことができた。そしてこの真実の教・行・証の法を心から信じ、如来の恩徳の深い
ことを明らかに知った。そこで、聞かせていただいたところをよろこび、得させていただいたところをたたえるのである。
    顕浄土真実教行証文類 序
 ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。
しかればすなわち、浄邦縁熟して調達闍世をして逆害を興しむ、浄業機彰われて釈迦韋提をして安養
を選めたまえり。これすなわち、権化の仁ひとしく苦悩の群萠を救済し、世雄の非まさしく逆諦闡提を
めぐまんとおぼす。かるがゆえに知んぬ、円融示徳の嘉号は悪を転じて徳をなす正智、難信金剛の信楽
は疑いをのぞき証をえしむ真理なりと。
 しかれば凡小修しやすき真教、愚鈍往きやすき捷径なり。大聖一代の教この徳海にしくなし。穢を
すて浄をねがい、行にまどい、心くらく識すくなく障おおきもの、ことに如来
の発遣をあおぎ、かならず最勝の直道に帰して、もっぱらこの行につかえ、ただこの信をあがめよ。あ
あ、弘誓の強縁多生にももうあいがたく、真実の浄信億劫にもえがたし。たまたま行信をえば遠くへ
宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かえってまた曠劫を逕歴せん。まことなるかな、
摂取不捨の真言、超世稀有の生法、聞思して遅慮することなかれ。
 ここに愚禿釈の親鸞、よろこばしかな、西蕃月支の聖典、東夏日域の師釈に、あいがたくしていま遇
うことをえたり、聞きがたくしてすでに聞くことをえたり。真宗の教行証を敬信して、ことに如来の
恩徳のふかきことを知んぬ。ここをもって聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。
挨拶される住職

お勤め