■みほとけとともに
いのちに目覚める
藤田 徹文
お正月に蓮如上人のところへお弟子の道徳という方が
ご挨拶に行かれました。上人はいきなり、
道徳はいくつになるぞ。道徳念仏申さるべし
(『註釈版聖典』1231n)
と申されたといいます。このお話は『蓮如上人御一代記聞書』に記されています。
浄土真宗でいうお念仏とは、一体いかなるものなのでしょうか。一般に多くの方は、何かをお願いする言葉であるとか、祈りの言葉であると考えておられるのでしょう。もっと言いますと、呪文か「まじない」のように思っておられるのかもしれません。しかし、浄土真宗でいうお念仏とは、そのようなものではありません。親鸞聖人は「南無阿弥陀仏は大行である」と教えてくださいました。「大行」とは、大いなる目覚めを促す「はたらき」のことです。
私たちがこうして、今、この世「いのち」があるということは、実は決して自分一人の力で生きているわけではありません。多くの「いのち」やものとのつながりの中で生かされて生きているのです。
では、その多くとは一体どのくらいの量なのでしょう。それは、時間的にも、空間的にも無限の広がりをもった広大にして返際のない世界のありとあらゆるもの、つまり量ることができないので「無量」ということなのです。量ることができないほどの多くの「いのち」やものが一つになり、私たちを生かしてくださる「はたらき」となって私のこの身(いのち)に届いてくださっているのです。
ですから、私の「いのち」は決して一人で生きている「いのち」ではありません。つらいこともあり、苦しいこともあり、嫌なことが多い人生かもしれません。しかし、決して私は独りぼっちではありません。
どんな時でも、私を支えてくださっている大きな「いのち」の世界が、私の「いのち」を包んでくださっているのです。その大きな「いのち」に目覚めて、お互いが自分でしかないかけがえのない「いのち」を生きるのです。
だから、勝った、負けた、どちらが優れている、どちらが劣っているというように、他の「いのち」と比べるようなごとがあってはならないのです。
ともすると、私たちは「いのち」の事実を見失い、自分の「いのち」は、自分一人で何とかなるように思いがちです。自分の都合だけを優先しながら、「思うようにならない、思うようにならない」と焦ったり、愚痴ったり、腹をたてたりしながら生きています。
仏教は、私の「いのち」を生かしてくださる大きな「はたらき」に目覚めさせていただき、その大きな「はたらき」の中、それぞれが自分でしかない「いのち」を身の丈だけでいいから精一杯生きよう、という教えです。
本来であれば、お釈迦さまのように、自ら親も妻も子も地位も何もかも投げ捨てて、自分と向き合い、自分の「いのち」のあり方に目覚めていくべきでしょう。けれども、そんなことができる人は、よほど条件にめぐまれた人だけです。
自分で自分の「いのち」に目覚めていく営みを、仏教では「行」といいます。しかし、私たちはなかなか自分で自分の「いのち」に目覚めることはできません。
ですから、そんな私たちに、私を生かしてくださる大きな「いのち」の世界のほうから、具体的に「南無阿弥陀仏」という御名となり、またご本尊となって、私の目覚めを促し続けてくださっている「はたらき」として、私のところに来てくださっているのです。
「南無阿弥陀仏」は「ここに私がいる」という名のりの言葉なのですよ、と親鸞聖人は教えてくださいました。
浄土真宗でお念仏を申すのは、「南無阿弥陀仏」という喚びかけ、大いなる「いのち」の世界から御名を通して、自分の「いのち」の本当のあり方に目覚めることです。
その目覚めがないと、人生でいろいろなことに出遭った時に、結局、一人相撲と申しましょうか、一人で力んで、一人できばって、やりきれなくなって、自棄を起こしたり、自らを傷つけるような、悲しい現実になることが多くあるのです。
「御身大切に」という言葉が昔から言われているように、「いのち」を大切にするということは、わが「身」を大事にすることでもあるのです。本当の「いのち」のあり方に目覚めなさいというおすすめが、「「念仏申さるべし」という蓮如上人のお言葉なのです。