法話中の十六世 徹文師
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わたしをとりまく一切が諸仏であったのです。やさしい諸仏も、厳しい諸仏も、あたたかく見護ってくださる諸仏も、重い試練をあたえてくださる諸仏もいてくださいます。
姿形・美醜に悩む人に「心のもち方ですよ」とつっぱねるのではなく、その人の悲しみを悲しみとしてくださる大悲の方が阿弥陀如来であります。
慚愧は、確かなものに遇って、自らの相があきらかになったときに、湧き出してくる心であり、行動であります。
(藤田徹文)
自からの悲しみが本当に明らかになった人だけが、他の人の悲しみを受けとることができるのです。
許して救うのではなく、許せないから、救わずにはおれないというところに、如来の変ることのない真実があります。
私たちの相手を思う「愛」の中味も、よくよく考えてみますと、自我愛(エゴ)そのものであったり、私たちの仏や神を信じるという「信心」の中味も、よくよく考えてみますと、我欲(エゴ)そのものであったりするのです。
お念仏申すとは、周りの人の中に仏さまを見い出すことのできる目を頂くということです。
(藤田徹文)
念仏申すものは、「我れ以外、皆な我が諸仏なり」という世界の中で日暮しさせて頂くのです
念仏申すとき、すなわち南無阿弥陀仏の呼び声が聞えてくるとき、弁才は限りなく広がり、話は自在に展開していきます。
本当に自らを身を飾るとは、他を圧倒することでも、自己主張でもないと思います。文字通り「慚愧の服」こそが、身を飾る「最も第一となす」のです。
諸仏(私を生かし、育んでくださる人びと)をおうやまいすることにおいて、自らの身心はより豊かに育てられていくのです。
周りの人を馬鹿にしたり、見下すことによって、自らの心はやせ細り、身は荒れはてていきます。
(藤田徹文)
供養は、相手の思いを大切にすることによって成り立つのです。
私たちは「落ちこぼれ」という名によって、「落ちこぼれ」をつくっているのです。
(藤田徹文)
人と環境は別のものではありません。人が環境をつくり、環境が人を育てるのです。
仏教の寺院は、本来、全世界に開かれ、すべての人にわけへだてなく光をあたえる場所。すなわち、真実に遇う場であったのです。
(藤田徹文)
私たちを苦しめるのは、「もの」ではありません。「もの」にとらわれる心が苦の種になるのです。
(藤田徹文)
男性は女性を通して、女性は男性を通してそれぞれ自らのあり方に気づかされ、その自らのあり方を超える努力によって、
人間的成長をとげるでしょう。
(藤田徹文)
個性が本当に生かされ、それぞれの色や輝きが最大限に許容され、いや許容されるだけでなく、他の色や輝きを増す
はたらきをする世界がお浄土です。 (藤田徹文)
「無上の智慧」は、自らの思いや都合、すなわち、自分の色を全くつけないことによって恵まれるのです。 (藤田徹文)
本当の自信は、確固たるよりどころをもつことによってはじめてあたえられます。 (藤田徹文)
人間は、自己主張なり、反抗することによって、相手のものの見方に抗議することはできますが、ものは人間のように
自己主張や反抗をしませんから、私たちのものを見る目が開けないかぎり、そのもののもつ本当のよさを語りかけてくれません。
(藤田徹文)
阿弥陀如来のみ教えに遇って、ものの見方が正されてくるとき、私たちは、自らの周りに「何と多くの仏さまがおってくださったことよ」と驚かずにはおれません。
同じような悲しみや淋しさを味わいながら、互いに手をとり合って、阿弥陀如来の真実の世界に歩みをすすめるところに、御同朋・御同行の世界があるのです。
(藤田徹文)
如来のお心に遇ったよろこびは、内面にとどまらず、顔をはじめ全身にあらわれるのです。逆にいいますと、内面にとどまらず全身にあらわれて、はじめて、本当のよろこびであるということです。
徹文師の書斎
阿弥陀如来のお心に遇うということは、他の一切の教えに耳を塞ぎ、目を閉じるということではありません。それどころか、阿弥陀如来のお心に遇うことによって、他の教えも独断や偏見なしに耳にし、目にすることができるようになるのです。
念仏申すことによって、わが身が知らされ、如来の大悲にふれる時、煩悩に執着したくとも執着できなくなります。
(藤田徹文)
「浄土真宗やっとかめ通信」からご許可を得て
記載させて頂いています。
「如来の願い」は、あくまで生命のありだけを燃やし生きる人生のささえであり、根元であります。
(藤田徹文
)
相手の心を精一杯くみとり、相手の心にそうように、精一杯努力するとき、どれほど粗末な品でも、相手をおうやまいするに最もふさわしい品となって現前することでしょう。 (藤田徹文)
選出掲載されたものの中から
徹文師のもののみ記載しています
信心という言葉には、心という字が使われていますから、心の問題のように思っておられる人が多いようですが、
信心はこの身の問題なのです。親鸞聖人は「愚身が信心」といわれ、蓮如上人は「わが身の一心」と、この身が
あきらかになることを信心といわれたのです。
(藤田徹文)
他人を責めつづけるとき、その人は、姿は人間であっても間違いなく鬼であり、自己をかえりみることのないものはすでに地獄の亡者であり、共に人間の世界に住んでいるつもりであっても、本当は地獄に住んでいるのです。