百八つの言葉(六) 著作 藤田 徹文

十六、恩愛
 親子・夫婦の愛、肉親の情を恩愛といいます。それは愛情や恩にひかれた執着でもあります。 恩とは、何がなされ、私が私として、今、ここに存在する原因が何であるかを、心に深く念うことですから、人間として大切なことなのですが、それが執着となりますと否定されるべきものとなります。
 特に仏道修業においては、恩愛は修業の妨げになり、断ち切らねばならないものなのです。 「流転三界中、恩愛不能断、棄恩入無為、真実報恩謝」の偈文を僧侶が得度するときにとなえますが、この文のこころは、この世において恩愛は断ち難いが、恩愛を棄てて真実を求めることこそが、真実の報恩になるということです。

 親鸞聖人は、
  恩愛はなはだたちがたく、
  生死はなはだつきがたし、
  念仏三味行じてぞ
  罪障を滅し度脱(生死流転から解脱すること)せし
                      (『高僧和讃』)
 とうたわれています。

 

 

十七、完全

 完全とは欠点や不足のないことです。人間の行為に完全はありません。自らの為したことを完全だと思ったときは過信です。

 『涅槃経』はそのような人間の思い上がりを戒め、また仏に帰依するときには、人々とともに大道を体得して、道を求める心を起こそうと願い、教えに帰依しては、人々とともに深く教えの蔵に入って、海のように大きい智慧を得ようと願い、また夏の暑さの厳しいときには、煩悩の熱さを離れて涼しいさとりの味わいを得たいと願い、冬の寒さの厳しいときには、仏の大悲の温かさを願うがよい。

 経を誦むときには、すべての教えを保って忘れないようにと願い、仏を思っては、仏のような優れた眼を得たいと願い、夜眠るときには、身と口と意のはたらきを休めて心を清めようと願い、朝目覚めては、すべてをさとって、何ごとにも気のつくようになろうと願うがよいと説かれます。完全ならざる私だからこそ、み仏を念ずる願いを大切にしなさいと、説かれているのです。

  

十八、改良

 いろんなことで行き詰った時、私はどこに問題があるのか、どこをどう改めるべきかを考えます。
 改めようとする私の思いは、どこをどうすれば良くなるかと考えるのが普通です。
ところが改めてみると、前より悪くなったということが、私たちのやる事にはしばしばあります。欠点を改め、さらに良くすることが改良ですが、私たちの場合、長所を欠点と思い違いし、長所をいじくって改良のつもりが改悪になってしまうことがあります。 
 改めるということで一番大切なことは、自分の思い込みを一掃することです。さらにいいますと、どれほど貴重な過去の経験があっても、どれほど大切な知識があっても、それらを横において、初心になって、一から他を見学して歩くことです。 見学して歩くとじっとしていてはとうてい気付くことのない点がみえてくるものです。