百八つの言葉(五) 著作 藤田 徹文

十三、笑顔

 私たちは自分の普段の顔が案外わかっていないのではないでしょうか。

 毎日鏡を見ない日がないのだから、自分の顔ぐらいわかっていると思っている人が多いようですが、鏡に映る顔は、どちらかというと、とりすました自分の一番いい顔です。目の小さい人は目を大きく開き、口の大きい人は口を小さくして無意識のうちに一番いい顔を作っています。

 写真を撮るときも“チーズ”とよそゆきの顔をしています。私たちは、鏡に向かうような顔、写真を撮るときのような顔で毎日生きれば、他人と争うこともなく、本当に気持ちのいい生活ができることでしょう。

 それが、鏡やカメラの前から離れたとたんに顔が変わり、しかめっ面になったり、なんとも嫌いな顔になってしまいがちです。

 笑顔が周りの人の気持ちをどれほど美しく見せることでしょう。「笑う門には福来る」です。

 

十四、会得

 十分に理解することを会得と言います。私たちは、何事につけ、「わかった、わかった」と簡単にわかったことにして済ましてしまいますが、後になって、どうだったかなと首をひねることがよくあります。

 本願寺の元総長豊原大潤師は、「ああそうか」、「なるほどそうか」、「やっぱりそうか」という話をよくされました。なにを聞いても「ああそうか」で聞き流す人が多いが、「やっぱりそうか」、身にあてて聞くことの大切さを話されたのです。

 仏法の聴聞においても、頭で理解して「わかった」と言っている人を「もの知り同行」と言っています。話に感動し、涙を流して「今日の話はよくわかった。ありがたかった」と話に酔っている人を「ありがた屋」と言っています。

 本当に仏法を会得するとは、教えに身がうなづくことです。本当に仏法が身に領受解了したのを「領解」といいます。

 

十五、恩義

 仏教では、恩の積極的な面を説くと同時に、消極的というか否定されるものとして説く二面があります。恩を積極的に説く面から言いますと、恩を心に念ずることが仏道修行の大切な要素であるとされています。

 『大乗本生心地観経』には、父母の恩、国王の恩、衆生の恩、三宝の恩の四つの恩が説かれています。父母あっての私たちです。わが父はどうの、わが母はどうのと父母の悪口を言っていても、その父母がいなかったら私という存在がありません。

 恩に背くことを逆と言いますが、その中でも特に重いものを五逆と言います。その五逆の第一番目は「ことさらに思うて父を殺す」こと、二番目は「ことさらに思うて母を殺す」ことです。

 いずれも大切な恩ですが、何と言っても恩の第一は如来の恩です。親鸞聖人は、「如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし」とうたわれています。