百八つの言葉(四) 著作 藤田 徹文

十、栄華

「栄華」とは、権力と富貴を極めて贅沢に暮らすことで、栄耀栄華と熟語されています。

 本願寺八代目蓮如上人は明応五年(1496)年、八十二歳の時に現在の大阪城の辺りに一宇の坊舎(のちの石山本願寺)を建立され、住まわれましたが、そのお気持ちを、

 「この在所に居住せしむる根元は、あながちに一生涯をこころやすく過ごし、栄華栄耀をこのみ、また花鳥風月にもこころをよせず、あわれ無上菩提のためには信心決定の行者も繁昌せしめ、念仏をも申さん輩も出来せしむるようにもあれかしと、おもう一念のこころざしをはこぶばかり」(「御文章」)

と言いきられています。

 私たちは何をするにも、自らの力を誇示し、自らの富貴のみを願って生きています、栄耀栄華を求めて自らの老いも忘れ、いたずらに日々の明け暮れを繰り返し、「わが身ありがおの体をつらつら案ずるに、ただ夢のごとし幻のごとし」

(「御文章」)の人生ではあまりにも悲しいではありませんか。

 

十一、永久

 「永」は、水の流れる形からできた文字です。それが後に水脈の永いことから、時間の長久の意に転じて、現在でもその意味で使われています。

 また「久」は屍体を後ろから木で支えている形からできた文字です。そしてこれを器に収めるのを柩と言います。これがいつの間にか長久、久遠の意に用いられるようになりました。

 永久は現在では、永遠と同じ意味で用いられ、いつまでも変わることなく時間が果てしなく続くことを表す言葉になりました。

 ところで、この世に、いつまでも変わることなく果てしなく続くものがあるでしょうか。

 強いことを言っていても人間は弱いもので、何かに頼らないと生きられません。この世に真に永久なるものがあれば、それを頼りにすべきですが、そういうものがないようです。

 聖徳太子の「世間虚仮、唯仏是真」のお言葉が聞こえてきます。

 

十二、円満

 円満といえば、現在では、円満な人物とか円満に解決というように、角がなくて穏やかという意味に使ったり、円満な顔というように、福々しいという意味になっています。

 仏教では、欠けめなく満たされた状態を円満と言います。

お釈迦さまは三十五歳で悟りを開かれてから、八十歳で入滅されるまでの四十五年間、「ただひとすじに善を求めて生きた」と言っておられます。お釈迦さまが善と言われたのは、自利利他円満する行為のことです。

 自利とは、自らを真に利益するもの、それが同様に満たされた状態が円満です。

 真の利益とは、苦を滅し楽を得ることです。仏教で言う苦は束縛であり、楽とは自在です。自らの「いのち」を百パーセント生きることを自在と言います。

 自分も他の人も「いのち」の

百パーセント生きられるような状態が実現して、真の円満なのです。