百八つの言葉(八) 著作 藤田 徹文
二十二、感動
数年前、若者のあり方が、無気力、無責任という言葉と共に、無感動と言われました。シラケルという言葉と同じような
意味で、何を見ても、何を聞いても、何が面白いのかというような態度で、表情に何の変化もないありさまが無感動です。感動とは、深く感じて心を動かすことがらですから、無感動とは、何を見ても、聞いても、深く感じることもなければ、
心を動かすこともない状態です。なんと無味乾燥な人生でしょうか。
この世は無常です。常に移り変わり、常に新しい日々を生きているのです、一つひとつの出来事を深く心に銘じ、心揺さぶられて生きるとき、毎日は感動の日々になります。
本願寺八代目蓮如上人は、
ひとたび仏法を
たしなみそうろう人は、
おおようなれども
おどろきやすきなり。
(『蓮如上人御一代記聞書』)
と、仏法に遇った人は普段はおおらかでも、なにかにつけ感動しやすいといわれています。
二十三、価値
「価」は、「物の直なり」ということで物の価値をいう文字です。
後には物の価値より、声価・評価のように、人の評判や品評のように、人の評判や品評をいう
語として用いられるようになりました。 「値」の声符は直で、直は人を直視することで、値は
人に値うことを表す文字です。
以上のように文字の意味を学びますと、価値とは「もののねうち」というより、あってよかったという「ひとのねうち」を表す言葉のようです。
私たちにとって最も価値あることは、この人に遇ってよかったという人との出会いではないでしょうか。
親鸞聖人は、
たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して
地獄に堕ちても、幸せというような出会いこそ、最高に価値あるものです。
二十四、歓喜
『仏説無量寿経』に「聞其名号、信心歓喜」とあります。これは、阿弥陀如来の四十八の誓願
の中、最も重要な第十八願が間違いなく成就されたことを表す『本願成就文』の言葉です。
親鸞聖人はこの言葉を解釈して、「歓喜」の意味と何が本当の「歓喜」かを明らかにしてくださいました。すなわち、
歓喜というは、歓はみ(身)をよろこばしむなり、喜はこころによろこばしむる
なり、うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころなり。
(『一念多念証文』)
と解釈され、その「歓喜」の中身を「聞其名号」と「信心」という言葉で明かしてくださいます。 「聞其名号」とは、阿弥陀如来の私たちを案じよびつづけてくださる名号を聞くということです。「信心」とは、その名号によって阿弥陀如来の私たちにかけられたお心が聞こえたということです。ここに真の「歓喜」があると、親鸞聖人は教えてくださいました。