十九、観念
「観念」という言葉はいろんな立場で幅広く使われます。国語辞書をひいてみますと、
① 刺激の去った後に意識のうちに残る心象
② 心静かに仏のすがたを観察すること
③ ある対象を指示する意識の徴表。イデア
④ ある事物はこういうものだと思いこむこと
⑤ あきらめること
等とあります。
念仏にも、観念念仏というのがあります。観念念仏とは、仏の形像を心に憶念することです。
現在では、仏の名を称える口称念仏が中心ですが、昔は観念念仏が主流でした。
中国の唐の時代に善導大師が世に出られてから口称念仏が主流になりました。善導大師は『往生礼讃』で、「衆生障重くして、境は細なり心は粗なり。(意)識颺り、(精)神飛びて、
観成就しがたきによりてなり、ここをもって大聖(釈尊)悲憐して、ただちに勧めて、もっぱら名号を称せしむ。まさしく称名易きに由るがゆえに、相続してすなわち生ずと」と言われています。
二十、環境
現代ほど環境が問題になっている時代は、過去になかったと思います。人間の欲望の肥大化が環境破壊の原因です。
私たちの欲望は、より便利な生活を追求し続けてやみません。
地球の温暖化により、異常な高温が続き、多数の死者を出している地域があり、降り続く豪雨で大洪水になり、たくさんの田畑を失い、多数の死者を出している国もあります。
増え続けるゴミ、またそれらの処理により出るダイオキシン、増え続ける車から出る排ガスによる空気の汚染、また、日常生活になくてはならない水の汚染、挙げればきりがないくらいの環境問題、犯人は全て人間です。
環境問題は人間の問題です。その人間自身に目が向けられない限り、環境問題の真の解決はないと思います。
大きな「いのち」の世界の真ん中で、他のすべての「いのち」と共にあるのが、私たちの「いのち」という原点に帰ることがなければ、環境は汚染され続けるでしょう。
二十一、感謝
私たちは、身近な人に不足や不平は言いますが、「ありがとう」と心から感謝することができません。
身近な人の有り難さがないか受け取れないから「ありがとう」と頭が下がらないのです。
もっと言いますと、身近な人に対する甘えというか要望が強すぎて、何をしてもらっても「当たり前」「当然」と受け流し、それを文字通り「有ること難い」ことと受け取る心を失っているから、何をしてもらっても感謝ということにならないのです。
自分の在り方が少しでも見えたら、私のような自分勝手な人間の為に、身近な人はようこそようこそ、何かに気をつけて気にかけてくださると、感謝の念も自然に出てくるのですが、自分をよほど立派な人間と思いあがっているから、何をしてもらっても「ありがとう」と頭が下がらないのです。
感謝は、自分を知った人の言葉であり行動です。自分を知ることが一大事です。