将来なにに成る 著作 藤田 徹文

 子や孫に、「将来なにになりたい」と問いかける親、またおじいさん・おばあさんは多いと思います。今の子供さんはどう考えるのかよくわかりませんが、私たちが子供の頃には、男の子でしたら機関車の運転手とか、女の子でしたらスチュワデスとか答えたように思います。

 「将来なんになるの」と、逆に子や孫に問われたら、私たちはどう答えるのでしょうか。

 「おじいさんはいろいろな仕事をしてきて定年退職し、おじいさんになったので、あとは死ぬだけよ」とでも答えるのでしょうか。

 おばあさんはおばあさんで、「もうなにもなりようがないので」では、どうも寂しいですね。

 お父さんは、お母さんはどう答えるのでしょう。

 「お父さんは、学校を出て今の会社に勤め、定年になって、あとはのんびり生きたいと思うだけで、何になりたいということはないね」とでも答えるのでしょうか。

 「お母さんは、お父さんと結婚して、あなたたちを育て、おばあちゃんになってゆっくりしたいと思うの」ということでしょうか。

 将来なにになるという目標のない人生、何か空しいと思いませんか。目標をもたない大人の姿を見て育つ子や孫の将来はどうなるのでしょうか。

 将来、死があるだけで、未来のない人生から学ぶものは何ひとつありません。

おじいさん・おばあさん・お父さん・お母さんは将来、仏さまになるんだ。

僕も私も、これからいろな仕事をし、いろんなものになるのだろうけど、最後は仏さまになってね。そのためにも、仏さまの教えを大切に聞く人なってね。と、将来を語れる私たちでありたいものです。

 

仏になる

 仏に成るとはどういうことでしょうか。「死ねばほとけ」などという人がいますが、仏教では死者を仏という事は決してありません。仏教でいう仏は仏陀の省略で、覚者、すなわち目覚めた方ということです。

 では、何に目覚めた方を仏というのでしょう。一つは、我が身を生かして下さっている大きな「いのち」の世界です。私たちは、どれほど偉そうなことを言っても自分一人では生きれません。一人で生きられない私たちが生きているのは、色も形もありませんが、間違いなく私を私として生かしてくださる世界が間違いなくあるのです。その世界を、すべての「いのち」のつながりで成立している縁起の世界と言ってもいいでしょう。

 また、すべての「いのち」を摂め取って捨てることのない世界ということでアミダの世界と言ってもいいと思います。そんな大きな「いのち」に目覚めた方が仏なのです。

 二つには、そんな大きな「いのち」の世界の中で生かされながら、小さな自我にこだわって「我」を張るだけの生き方になっている愚かな自分自身に目覚めた方が仏なのです。